学習しよう 労働者の権利
憲法が労働者の団結権を保障している意味とその歴史的意義
弁護士 岡田 尚
団結権、団体交渉権、団体行動権(争議権)。憲法に定められた「労働基本権」ですが、この権利は労働組合に加入することで、また労働組合として会社に対して行使するものです。
なぜこのような権利が労働者側に認められているのか、また労働者は労働法をどう活用すべきか。JMITU日本IBM支部争議弁護団の一員である岡田尚弁護士が月刊『学習の友』2017年4月号に執筆した記事をもとに改めて「学習」していきましょう。
※『学習の友』編集部および岡田尚弁護士の許可を得て転載しています。
居酒屋から始まった労働組合
憲法28条は、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」と定めています。これが労働組合を結成し、使用者と対等に話し合い、要求が受け入れられなかったときにはストライキをする等の権利の源泉です。
このような権利の保障は、日本国憲法が制定された1946年以前のわが国にはありませんでした。これを労働基本権といい、ここでいう団結権が認められてはじめて労働組合の結成が非合法でなくなったのです。労働力を売り、賃金をもらうことでしか生きていけない労働者にとって、不満と要求はなくなることはありません。仕事が終わって、ビールを飲みながら愚痴をこぼし合う…そんななかから連帯が生まれ、団結が生まれます。それが労働組合結成のはじまりです。
それをみた資本家たちは「そのまとまりが自分に向かってきたら」と恐くなって、例えば英国では1799年の「団結禁止法」ができました。労働者が団結することはもちろん、話をすることも、説得することも、カネを出すことも、集めることも、全てを禁止されていました。そして、労働者はこうした弾圧に抗してたたかうために、お互い裏切らないことを約し、「兄弟分の契り(ブラザーリング)」を結んだのです。
労働組合結成、その合法化までに、世界でどれだけの血が流れ、生命と自由の犠牲があったことか。
労働法は「不平等」を定めている
労働組合結成の歴史をみても、労使関係を大きく左右するのは「力」関係です。働く者の団結の「力」が弱ければ要求は実現しないし、雇用・労働条件を守ることもできません。
しかし、「力」関係といっても、裸と裸のぶつかり合いではありません。「力」関係において、大きな差がある労使関係を可能な限り対等にするために、憲法の保障のもと労働法があります。
平等な人と人との間では、何時間働こうと、働いてもらおうと、お互い納得すれば自由に契約できるはずです。しかし、労働基準法32条は「原則1日8時間、週40時間を超えて労働させてはならない」としています(もっとも、時間外労働の上限の規定はありませんので、実際は青天井となっている職場は相当あり、これが現在大きな問題となって議論されているところです)。
労働組合の権利等を定めた労働組合法は、1条2項で「労働組合がその目的に沿った正当な活動をする限り(例えば刑法に該当するような行為であっても)罰せられない」としています(もちろん暴力等の行使は例外です)。ストライキは外形的・形式的にみれば「会社に対する業務妨害」ですが、これに対しても威力業務妨害罪の刑事責任も損害賠償の民事上の責任も問われません。
また、同法7条2号に「使用者の団体交渉応諾義務」が規定されています。使用者は労働組合の団交申し入れを断ってはいけないのです。一方、労働組合は使用者から話し合いの申し入れがあっても、受けるか断るかを自由に選択できます。そして、使用者が労働組合の結成や活動を妨害すると「支配介入」とみなされ(同3号)、組合員に不利益取扱いをすることも禁じられています(同1号)。
労働組合法は、使用者に対して「不平等」な取扱いをしているのです。対等にするためにいわば労働者に「下駄を履かせている」のです。
何故、労働者に「下駄を履かせている」のか
どうして、こんなに労働組合側を有利に取扱っているのでしょうか。近代法が形式的自由・形式的平等を謳ったのに対して、労働者や農民に実質的自由・実質的平等を付与したのが、ワイマール憲法における生存権です。この考えは、日本国憲法25条に引き継がれています。労働法は、この生存権を具体的に確保するために、労働者を階級的従属・人格的従属から解放し、団結権、団体交渉権、争議権(これを「労働基本権三種の神器」といいます)を認めることによって、労使の実質的対等の原則を実現し、そのなかではじめて人間の尊厳が守られると考えたのです。
労働法を我がものにして日常活動の活発化を
このように厳しい歴史と試練を経て日本国憲法に規定された労働基本権を、現代の私たちが理解し、これを使いこなさなければなりません。権利が法典のなかに眠っていては、絵に描いた餅になってしまいます。権利を守り、発展させるためには「権利のための闘争」(イェーリング)が必要です。まずは、労働者・労働組合に憲法や労働法が認めている権利を知ること、そしてこれらをどう使うかを日常的に考えることが求められます。三種の神器を、使用者からの攻撃に対する防御としてだけではなく、こちらからの攻撃の道具として用いなければなりません。
組合活動の権利(組合事務所の貸与、掲示板の設置、チェックオフ等)を拡大し、賃金等労働条件についても、使用者が一方的に制定する就業規則ではなく、労使対等で合意した労働協約によって決定することが大事です。労働協約に反する就業規則は無効です。どんな小さなことでも労使合意少なくとも協議を経て決めるということを慣行化させることが重要です。そして、仮に獲得した既得の陣地があっても、すぐに奪いとられる可能性があるということも十分注意する必要があります。
使用者との間に紛争が発生すれば、その内容によって、労働基準監督署、労働委員会、裁判所等第三者機関の利用も検討することになりますが、その際は、労働関係に詳しい弁護士に相談するのがベターかと思います。
労働組合は、何より現場の力で決せられます。幹部請負ではなく民主的運営が不可欠です。そして、学習・討議・実践のくり返しを通じることで、団結の力が本物になります。労働者の生活と権利を守り、発展させていくことが、労働組合の責務です。労働組合のあり様は労働者が人間らしく生きられるかどうかを決定付けるものと言えます。
憲法の危機は労働法の危機
そして、日本国憲法においてもう一つ重要なことは、労働者にこのような権利を与えることが、再び戦争への道を歩まないための最善の保証という考えが根本にあることです。明治憲法下においては労働基本権の保障がなかったが故に「軍部独裁のもと戦争に突っ走ることを阻止する力が労働者になかった」との反省のうえに立っているのです。
今、安倍内閣の憲法改悪への歩みは急ピッチで進んでいます。憲法の危機は労働法の危機です。労働者・労働組合の権利の後退は戦争への道とつながっていきます。「今、ここに、共に、生きる」私たちは、職場から、地域から、これを阻止するためのたたかいに一緒に起ちあがらなければなりません。